私の性と身体

non117.hatenablog.com

この記事が面白かった。で、私はどうなんだ、と振り返りたくなったので、軽く書く。 ここ出てくるA・B・C・Dは元記事の図を参照ください。

ざっくり言うと、私はBだ。で、Cを獲得しようとしている(せざるをえない)状況で、苦慮してるなというところ。

環境の影響として大きいのは、父と幼くして死別し女性方(母・祖母)のみで育てられたところだと思う。言葉よりも声色、身振りが記号となった。学生時代に波長が合うなと感じた先生も女性が多かった。音楽に傾倒した(聴いて、演奏して、作曲したりもした)のも身体要素中心といえるだろう。あれは機械学習的に言うと、聴くことで音から心が出力されて、それをまず学習し、演奏や作曲にあたっては心から音を出力するものだろう。主観的にはそのように感じる。つまり心(もっというと知情意の中の感情)が開いていないと、変換ができないわけであって、これもBの要素と言えるだろう。瞑想に傾倒するのもBの要素だろう。身体を、心を、直接感じ取るのは楽しい1

どこまでが先天的でどこまでが後天的なのかはわからない。それぞれの影響量を分けて考えることにはあまり意義を感じない。

仕事(IT系)をし始めてからは、Cが求められていると言えるだろう。そしてそれには苦労している。なぜ言葉が通じないのか、や、単に復唱するだけで反論されたかのようにみなされるのはなぜなのだ、などと、会話に苦慮しているが、これは振り返ると、言語重視のコミュニケーションのプロトコルからすると共感のための復唱など無意味なのだろう。このような感じで、一時が万事で大変だ。かといって悪いことばかりでなく、結果としてCを一定程度得ることになるので、言語運用能力は高まり、論理性も高まり、「そのやり方での」問題解決能力も高まっていると感じる2

性自認は(私は生物学的性は男)male側だが、female側にだいぶ近い、中央に近いところにあるだろう。ただし中央を越えてfemale側にいくことは、今のところない。中央の縦線からすこしmale側の位置が、最も快適なのだ。でもって性的指向異性愛だ。ただ、同性への魅力は理解でき、嫌悪したり存在を認めないということはない。心を揺さぶられることもたまにある。あるが、越境することは今のところない。私の本能は異性を求めている、と今の自分が感じているのははっきりしている。それをこの図で言うと中央に近いmaleとなるだろう。

身体と言語をどう使うか

身体と言語、それぞれをどう使うか。

言語と身体、ハイブリッドなのが最強、なのかもしれないが、私の今の感覚では、どちらも、は難しい。軸足をどちらかにおく必要があって、それは私はBだろうと感じる。そもそもハイブリッドが最強かはあやしい。実際の生活では、身体モードか言語モードかを切り替えるのが良いだろう。もっと言うと、もう一つのモードはバックグラウンドで起動しておいて、DJが使うミキサーについているクロスフェーダーのように、そのときどきの状況に応じて、すみやかに動的に割合を設定することができると良いだろう。

両者は共に育む価値があると思う。前者は私の文化が、後者は私の文明が発展するだろう。

自身の環境へのおき方はどうすればいいかというと、自身の領域に同じまたは近いところをホームグラウンドとするのが、まあ基本的には良いだろう。違うところをホームとしていると、不都合が生じやすいのではなかろうか。その上で、他の領域には、旅をして、育んでみよう。自身の中と外のつながりはより豊かに、穏やかになるだろう。

身体と言語の育て方

身体と言語をどう育てたら良いか。今の私の経験から思うことをまとめておく。

身体を育てるには、「書を捨てよ町に出よう」。家の外から聞こえてくる音、見えてくる景色、におい、地面のかたさ、湿気、味を感じよう。特に海や山や公園など、自然が多いとより良いだろう。そういった場所は文字が少なく、身体に浴することができるだろう。写真や映像、音楽、工芸など、言語以外の要素を持った文化をするのも良いだろう。マインドフルネス系の瞑想も良いだろう。そのときどきの心が自覚できるはずだ。言語で構築された世界に実質が加わり、身体を実感するだろう。

言語を育てるには、「書を持って町に出るな」。私の経験からは、まめに辞書を引くと良い。身体に寄っていると、言葉を感覚で理解するようになるのではと思う。そこを、辞書を使うことで、言葉を言葉で理解する、言語世界を作り上げていくのだ。気になった言葉があれば辞書を引く。知っている言葉でも辞書を引く。語釈で使われている言葉もまた引く。こうしていくことで、次第に言葉を言葉で定義する、言葉の網目が出来上がってくる感覚ができてくる3。今度は、それをもって、心を言語化してみる。言葉をつなげて、心を表現するのだ。そうすることであなたの身体は知覚可能な形で表され、よりゆたかに情報や意思を伝達できることだろう。また、言語は身体にもフィードバックをあたえ、身体が感じる「それ」の分別力が上がるだろう。結果、よりゆたかに身体を表現(言語化)できることだろう。

上で、両方育むのが良いと言った。だから、合わせると、「書を持って町に出よう」ということで、単純に思い浮かぶのはカフェや公園で本を読むことだが、別に同時に行う必要はなく、書(言語)に接することと町(身体)に接することを、それぞれやっていけばよいと思う。


  1. ただしその楽しみに溺れると、常に飛び回る心(モンキー・マインド)に振り回され続けるので注意。

  2. Cに浸かっているときには、おそらく「そのやり方での」が理解できない(それ以外無いのでは?)と思うが

  3. 辞書によって言葉の意味はより強固に規範化されるわけだから、辞書を使って学ぶことで、独自の言語世界ではなく、共通認識ができている言語世界を作り上げるという効果もある。