私の仏教的経験について

最近、お酒を飲んでいません(人とでも一人でも)。たまに理由を聞かれたときは、「宗教上の理由」などと答えています。嘘ではないのですが、そういう場で詳しくは話そうとは思いませんし、話すととても長くなるし、やべーやつにしかならないので、話していません。でも知っていてくれたら嬉しいなという気持ちはあるので、読みたいと思う人だけ読めるこういった場所で、そうなった経緯も含めて、「私の仏教的経験について」という題で長い話を書いておこうと思います。また、仏教の瞑想やスピリチュアルなどそのあたりに興味がある方もいらっしゃるかと思いますので、一事例として、その方々の参考にもなればと思い、書きます。

※「どうしてお酒を飲まないか」については、最後の方に書いてあります。このリンクで該当箇所まで飛べます。

仏教を知る

「宗教上の理由」の「宗教」とは仏教のことなので、まずは仏教をどういう経緯で知ったか、という話をします。宗教や心理、精神世界の探求にはその元の動機となる「課題」を各々抱えていることと思います。具体的な問題があったり、自分が嫌いだったり、あるいは実存の怯えとでも言えるようなものや、死への恐怖などがあるでしょう。単純に好奇心というのもありえるかもしれません。私の場合は具体的な問題として立ち現れてきました。なお、この記事で述べる「仏教」は主にテーラワーダ上座部・南方・小乗)仏教系のことを指しています。

学生の頃の私は自信がありませんでした。自分の向き不向きや進路についてあまり深く考えていませんでした。就職活動もなんとなく、大学生の就職先として一般的であると思われる一般企業への正社員での就職を目指していましたが、上手くいってはおらず、将来への不安を抱えていました。主流と思われている人生の生き方をすればなんとなく生きれると思っていて、自分の人生を引き受けようとしていなかったのですね。

こういう問題の場合、がむしゃらに問題に立ち向かっていって解決する方法もあるかと思いますが、私はそうはせず、問題に対するつらい気持ちをなんとか和らげたいと願いました*1

そこでまずよすがにしたのが、心理療法でした。私が中学生の頃、心理学に興味を持ち、いくつか本を読んでいました。読んでいた中で来談者中心療法や行動認知療法といった心理療法も知っていったのですが、いよいよ結構しんどいなと思ったその頃、それらを試してみたいと思うようになりました。けれども来談者中心療法の方法であるカウンセリングは、うまく話せそうにないという不安や、スティグマを「なにか」に押されるような不安から*2、行くことはできませんでした。また、書店にある行動認知療法の本はカウンセラーのために書かれたものが多く、私の目的に合致しませんでした。自分でできる本もありましたが、自身が行ったことについて、そうするまでに至った思考プロセスを逐一詳しく書くことが求められており、「そこまでするのはちょっと(大変)……」と思い(しとけばよかったですけどね)、結局買いはしませんでした。

もっと分かりやすいものはないかと思い本棚を探していると、『うつ・不安障害を治すマインドフルネス―ひとりでできる「自己洞察瞑想療法」』(大田健次郎、佼成出版社)という本が見つかりました。心理療法の棚には行動認知療法以外にも種々の認知療法についての本があり、そこにはマインドフルネスストレス低減法やACTといった、マインドフルネスを支柱とした心理療法の本もありました。行動認知療法と同様に、カウンセラー向けのものは多いのですが、「ひとりでできる」というところで魅力を感じ、上記の本を手に取ったわけです。それが、「マインドフルネス」を知ったきっかけです。

その本に従い「自己洞察瞑想」をしていったのですが、あまり楽にはなれませんでした。行うことは具体的に書かれているのですが、説明があまりうまく理解できなかったのです。また、ステップ1ができたらステップ2、それができたらステップ3……と、次のステップへ進むためには前のステップを完了していることが求められているのですが、最初のステップ1にあった「朝7時までに起きる」がまず当時の私には難しく……。心は少し軽くなったような気もしますが、先に進んで良いものかどうか分からず、結局はしたりしなかったり、な状態でした。

それで、またどうしたらよいかと思い書店へ行き手に取ったのが『マインドフルネス』(バンテ・H・グナラタナ、サンガ)でした。結果的に私にとってこの本は当たりでした。この本を手に取るに至った経緯はあまり覚えていないのですが、上記の本の中に、「自己洞察瞑想療法」が「仏教の瞑想法を元にしている」といった記載があったので(確か)、そこから仏教の瞑想法の本棚へ向かって探したのだと思います*3

観察

以上のような経緯で、仏教での瞑想法を知り、それを行っていきました。仏教の瞑想法も、「マインドフルネス」と呼ばれます。仏教独自の言い方では、「ヴィパッサナー瞑想」とか「気づきの瞑想」が多いでしょうか。以下この記事では、それらをまとめて単に「瞑想」と表記することにします。

瞑想は、簡単に言えば、今何をやっているのかを今その都度確認していく作業になります。歩くときは、右足を前に出して地面におろし、左足を前に出して地面におろすことでしょう。それらの一連の動作(の繰り返し)を、今こう動いた、今こう動いた、と確認していく感じになります。

そうすることが分かってきたら、先ほど書いた「今何をやっているのか」の「やっているのか」の部分を極力抜いて、「今(身体と心に)起こっていること」を観察するようにしていきます。長時間(20分以上目安)動かなくて済み、意識が明晰にできる姿勢(つまり腰を伸ばした寝る以外の姿勢)をとり、目は閉じるか伏し目にして視線は虚空を見つめ(要するに意識的に何か見ようとはしないようにするということ)、鼻から出て入る呼吸を観察します。そのまま観察を続けていると、そのうち身体の痛み*4や想念などが大体の場合出てきますので、そのときはそれらが起こっていることを確認しながら、呼吸の観察を行っていきます。何も起こっていないときは、呼吸の観察だけ行っておきます。呼吸の観察を忘れて心身の現象に没入することもあります。そうなっていることが分かったときは、分かった瞬間からまた呼吸と心身の現象の観察に戻っていくようにします*5。こんな感じのことを、好きな時間、あるいは事前に決めた時間だけタイマー等を使ってやっていきます。

変化

でまあ、こういうことを続けていきますと、いろいろと変化が出てきます。顕著に感じた3つの変化を書きたいと思います。

まずは、ポジティブな心理状態が増えていきました(1つ目)。心身の現象の観察は、かなり来談者中心療法的なカウンセリングに近いと思っています。心に去来するものごとを、自然なタイミングで、自然な速度でクライアントが語り、カウンセラーがそれを受容する。瞑想はこれを一人で行っているのに近いのではないかと思います。そうすると、自分の心についての理解が進むのですね。こういう事で悩むことが多いとか、ちょっと自分を責めすぎているとか、あるいはこういうパターン(思考機序)で自分や人を責めることが多いのだな、とか、それが続いて気分が悪くなったりするのだな、とか、そういうことが分かってきます。

ものごとの仕組みを理解したと感じると、安心します。まず、仕組みを知ること。そうすれば、ネガティブな考えに入ること自体は避けられなくても、「ああこれか」と自分が今どういう状態になっているかなどが分かってきます。正体が分かった「敵」の威力はあまり強くありません。落ち着いて見ていると、大体の場合消えていきます。消えなくても、消えないことについてさらに悩むことは無くなります。そうすると、ポジティブな思考(解釈)の方が増えていきます*6。これは楽でした。

一方で、驚くべき変化も起こりました。楽しいという感情とか、悲しいという感情が消え失せたように感じたのです(2つ目)。サイコパスになったんじゃないかと不安に思いました。実際、そうだとも言えます。『サイコパス 秘められた能力』(ケヴィン・ダットン、NHK出版)には、2つの共感が説明されています。一つは「熱い共感」。人が喜んでいたり悲しんでいるのを見て、同じように喜んだり悲しんだりする感情ですね。もう一つは「冷たい共感」。これは人が喜んでいたり悲しんでいるのを見て、その人にその感情の動きがあることは理解するのですが、一緒になっておもわず喜んだりはしないということです。これが自分自身の感情に対して起きたわけです。「感情は私ではない」とは仏教系では良くいわれることかと思いますのが、それが起こったわけです。自己と感情の分離です。これまで当たり前のように私だと思っていたものがそうでなくなったのですから、それは不安でしょう*7。どう解決したのでしょうか? あまり思い出せませんが、上記の本をつまみ読みして、自分の状態が大体わかって安心したことと、感情が分離したことに慣れてきたことで、悩みが解消していったと思います。あと詳細は割愛しますが、慈悲も大事だと思います。感情と一体化するという防衛機制が失われたあと、自分を守ってくれるのは慈悲や善行だと思います。

そういった変化があった後も、瞑想を続けました。そうすると次第に、ポジティブな思考もネガティブな思考も飽き飽きしてくるようになりました(3つ目)。思考は絶え間なく生まれ、消えていくのです。そのどれかを捕まえてそれを「私」(の見解)にすることが、とても重くしんどく感じられるようになってきたのです(もちろんネガティブな思考よりポジティブな思考を持っておく方が良いのですが、それにしがみつくとそれはそれでしんどくなってしまいます)。なので、あまり持たないように、心の動きを観察し続けながら、ただ流れていくように……と瞑想をしていきました*8

認識の「追加」

そのようなことがありながら、なおも瞑想を続けていくと、認識が追加される事態が2つ起こりました。

一つ目は、「今」が圧倒的に「今」である、という認識です。過去と未来は「ある」(実在する)と思っていたのですが、圧倒的に「今」が続いていくというリアリティが眼前に現れ、過去と未来が想像の範疇に収まったのです。過去に起こったことを思い出すことも、未来にどのようなことが起こりそうか考えることもできるのですが、それを行っているのは常に「今」だ、という認識が追加されました。これはとても安心できて、なぜ安心できるかというと、つねに付き添う「今」が圧倒的にリアリティをもって存在しているので、「今」を支柱に、ホームベースにできるからです。常に立ち返ってこれるポイントが、「今」にある。ストレスは、ストレスを解消する方法があると認識している時点で大分和らぐと聞いたことがありますが、それと似ています。いったん種々の問題を脇に置いてリセットするのは、「今」にあると思うようになったので、楽になりました。

二つ目は、全ての現象が生まれては消えていくことだけが続いていくという認識です。例えば、木を見たら木だと思うでしょう。木は育ち、春には葉をつけ、冬には葉を落とし、それが繰り返され、いつかは枯れる、と知ってはいても、1分やそこらで変わっているようには見えないでしょう。それが、目で見ては変化していないように見えても、認識では刻一刻と変わっていくように見えるようにもなるのです。はい、変わったのは世界ではなく私の認識の方です。対象を認識する心が変化し続けているのです。ということは、それによって作られる私にとっての世界も変化し続けているということになります。固定的にある物体も、原因があって変わらないように見え続けているが、微細な領域では変化し続けている、というように感じられるようになります。

これもまたとても安心することでして、なぜ安心するかというと、悩みが起こる構造をこれまた圧倒的に納得してしまうからです。仏教では、どうして悩み苦しみが起こるのか、というのを、「ものごとは自分の思うとおりには完全には動きません。それぞれの縁起が相互に関連して現象が起こっているから、思い通りにはならないこともあるんです。でもそうは言っても思うとおりになって欲しいと思いますよね、だから思い通りにならないこともあって、そこで何で(思い通りにならないんだ)と苦しむんですよ」というように説明しているのですが、「それぞれの縁起が相互に関連して現象が起こっている」という部分がこの認識の追加によってありありと感じられるようになるのです。具体的にどんな縁起が起こっているかなどということは分からないのですが、何についても変化が続いているという認識が起こるわけですから、その説明に納得せざるを得ないわけです。そうすると、苦しみのからくりが解けて、楽になります。分からないものごとに納得のいく説明が与えられると安心する、というのと似ているかと思います。

その後

さて、こうした認識が追加されてどうなったかというと、好ましい変化はひとつありました。すべてのものごとに関連性があるように感じられて、あまり寂しくなくなりました。「わたし」はすべてのものから形作られてできており、他のすべてにも「わたし」は埋め込まれている、と。現代文の授業などで、人から受けてきた影響が私を形作っている、というようなことを書いてある文章はよくあったような気がしますが、とはいえ実感としては「私」は何か他のものとの分離している部分があるように感じられていました。その垣根がなくなったような感触です。それは、上に書いた「それぞれの縁起が相互に関連して現象が起こっている」という説明にとても納得したからです。こうなると、家族が亡くなってもあまり寂しくなくなります(死を知った時は、喪失感はありました。じっと、その喪失感と一緒にいました)。「わたし」をよく見ると、そこにはその人のかけらがいくつもあるのです。生きた証は、「わたし」にあるのです*9。「わたし」のかけらも、いろいろバラまかれていることでしょう*10。そういうことがあったのでなんだかとても楽になりました。

でも、他のことはあまり変わりません。うまく表現出来ないこともあるし、人の話を聞かないこともあるし、自分や人を傷つけることもあります。欲に駆られることもあるし、うらやむことはあるし、仕事はそんなにできるわけではないし、思ったものを得られるわけではありません*11。ただ、コミュニケーションとしてのそれは別として、ため息と貧乏ゆすりは無くなりました。多分ため息も貧乏ゆすりも、それを起こそうとしている中身を観察した方がましだと思うようになったのでしょう。

あとはあまり変わらず、「今」を生き続けています。

どうしてお酒を飲まないか

さてやっと、どうしてお酒を飲まなくなったかについて書きます。一言で言えば「不飲酒戒を守りたくなった」となるのですが、そのあたりの経緯をもう少し詳しく述べることにします。

これまで書いたように、瞑想をやっていくことで、どんどん楽になっていきました。そうすると、楽しみのために飲んでいたお酒を飲むと、むしろ心を乱されてしまうように感じるようになりました。先に、認識が追加されたと書きましたが、欲に溺れたりしているときはその認識は消えてしまいます。お酒が入っていないときは、それも長くは続かないのですが、お酒が入ると、常時そのモードになってしまうので、つらくなるわけなのですね*12。それを何度か繰り返して分かってきたので、自発的に飲む回数は減っていきました。

それで自分からお酒を飲むことはしなくなっていったのですが、人と一緒にお酒を飲むことはそれからもしていました。お酒を飲むことは嫌になっていたのだけれども、人とのつながりが絶たれるのではないかという気持ちがあり、それが怖かったのですね。でも結局のところ、やめました。それは、お酒が無くても人間関係は構築していけるかな、というある程度の自信と、お酒が無いと構築できないような関係は捨てる(あきらめる)、最悪それが原因の一つになって行き詰まってもまあしかたないか(いいか)、というところに落ち着いたためです。

そういう経緯でお酒をやめたので、表現としては「お酒が苦手になった・いやになった」と言うほうが適切かもしれませんが、その後そのことについてきっちり話すとなると、おそらく上に書いたような話をすることになるだろう(そして話をするには長すぎる)ということと、お酒については完全にシャットアウトする便利な言葉として「宗教上の理由」と答えるようになるに至りました*13

ちなみに、お酒をやめて飲み会の場などでどうなったかというと、以前よりも人の話をしっかり聞けるようになったためか(すみません、聞いてないときもあります)、あまり関係は無くなっていないと思います(自然消滅した方の関係が思い出せないだけかもしれない*14)。割り勘の場合は少し安くしてもらうこともあったりして、ありがたかったりします(とはいえその分食べていると思うのでトントンな気もしていますが……)。そして何よりも、きちんと聞こうとする状態に早めに戻れるということは、個人的にはとても嬉しいことです。

おわりに

ここまで読まれた方、おつかれさまでした。ありがとうございました。多分しっかり説明しようとなると、長くなるなと思ってはいたのですが、まあ長くなりましたね……。冒頭にも書いたとおり、どうしてお酒を飲まなくなったかの経緯が分かったり、一事例として参考になればさいわいです。自分にとっても、一つの物語としてまとめることで、これまで起こってきたことの関連性や流れについて洞察を得られそうな感じがしており、書いてみて良かったなあと感じています。

*1:ストレスが起こる問題の対処法にはどんなものがあるのか? については、「ストレスコーピング」というキーワードで検索すると良さそうです

*2:押そうとしているのは「私」です

*3:余談ですが、やはり書店という場は良いと思います。なんとなく興味を持った対象について、現在出版されている本には限られますが、ざっと背表紙を見て、タイトルを見比べて、気になった本については手に取って本の内容を見ることができる。良さそうだと思ったら、そのまま買って帰ることができる。これまで書いてきたように、曖昧な欲求から仏教へ行き着くには主に本をたどってきた、ということになりますが、そういうことができるのは、現時点では書店だけだよなあ、などと思います(と思っていましたが、図書館もそれができますね)。

*4:ちなみに身体の痛みが我慢ならず、姿勢を変えたいときは、瞑想をやめるか、あるいは姿勢をゆっくり変えながら身体の動きを観察して、変え終わったらまた瞑想を続けたら良いと思います

*5:分からなくなることは良くあるから気にしないで良いです。とりあえず10000回くらい失敗して戻ってくる、そんな心持ちでやってみてください。10001回目も、来ます

*6:これまで観察してきたところによると、ポジティブな思考とネガティブな思考はだいたい水から出てくる泡のようにランダムにそれぞれ勝手に現れてくるようです。しかし生存本能と言えばいいでしょうか、そのあたりがネガティブな思考に反応することで、ネガティブ側の思考が見えやすくなる傾向があると思います。ネガティブな思考は自己を保存してくれる部分は役に立ちますが、ネガティブ思考が行き過ぎて自身の心身を傷つけるようになってくるとそれはそれで問題です。それで、ほどほどのところでやめておくようにしておくと、ポジティブ側の思考が見えることがだんだん増えてきます。そういう機序でポジティブな思考が増えていきます

*7:ちなみに不安といっても、「うわ不安だ、どうしようヤバイ、まじでどうなっちゃったの? もうまともではいられないかも……」というような、感情が自己と一体化して渦巻くのではなく、「なるほど不安か、ではなにか、答えを探してみますか?」とあくまでデータの一つのように感じられるようになる感じです。言葉にすると、どちらも自己と分離しますから、表現するのが難しいですね。つらい感情があっても、絶望ではなく痛みになります。楽しい感情があっても、有頂天ではなく喜びになります。感情から受ける影響が自身全体を覆いはしなくなります。そのような感じです

*8:これは、前段落に書いた「感情と自分の分離」のように、「思考と自分の分離」を企図していると言えそうです

*9:大切な人を亡くしたときは、悲しみが収まってきたら、よかったら探してみてください。きっとたくさん残っていると思います

*10:このあたりは手塚治虫的世界観ですね

*11:認識の追加で何か劇的に状況が好転するわけではありません。そちらについては、その因縁を積んでいけば(要するに「がんばれば」)望む結果が得られる可能性が上がると思っています。もちろん、安心感が役に立つことはわりとありますが、独立しているものと思った方が良いでしょう

*12:一応補足しておくと、これは私の場合そうなったのであって、普通は感情を抑圧してストレスが溜まることが多いので、それをスムーズに吐き出してくれるお酒(の場)は精神衛生上良いものだと思います。私もそれに助けられていたところは多いにありました

*13:もう少し詳しく書くと、まず「宗教上の理由」がスラングなので、本気で言ってるのか冗談で言っているのか分からないことで、あまり興味のない人&それについて関わりたくない人はそれ以上聞くのをやめること、次に、詳しく聞きたい人がもしいた場合は、これまでに書いた経緯を話すことで、きっちりと答えられるということ、最後に、宗教と聞いてその全てを避けたい人の場合は、多分うまくはやっていけないので、早めに関係を薄められること(ポジションを取っておく感じですね)、上記3つを達成できそうな言葉として、「宗教上の理由」を使っています

*14:でも多分、お酒一つで関係がどうというのはあまりないと思います。一緒にいて楽しいと感じられるか、が判断基準になるでしょう